0-4.ブログ運営者のプロフィールとは?どんな人生を生き、今何をしているのか?

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本ページでは、ブログ運営者(ヤミシタ)のプロフィール

・今までどんな人生を生きてきて、今は何をしているのか?

についてお伝えします。

ヤミシタ

プロフィールを書くことは、気恥ずかしいですが、記事を読んでいて、「そもそもオマエ誰やねん!?」という疑問が浮かぶと思いますので、「今までどんな人生を生きてきて、今何をしているのか?」について赤裸々に書きます!

学生時代

小・中学校時代

小・中学校時代は、地元(兵庫県伊丹市)の公立小・中学校に通い、至って平凡な暮らしをしていました。

とても裕福な暮らしをする訳でもなく、ひもじい想いをする訳でもなく、愛情溢れる家庭で、平穏な日々を過ごしていました。

ただ、好奇心は強めでした。

「何故だろう?何故だろう?なぜ、何故だろうと思うのだろう?」

など、頭の中から「なんで?どうして?どうなってるの?」という様々な疑問が自然と沸いて出ていました。

その強い好奇心からか、いつしか宇宙にとても興味を持つようになり、「将来は、宇宙に関係する仕事に就きたい」という夢を持つようになりました。

その為には、「航空宇宙工学科」がある大学に行かねば、そしたら、地元の「普通科」しか無い高校に行ってたらダメなのでは?という想いから、

地元の「普通科」しか無い高校ではなく、兵庫県の山奥にある「総合科学科」が有る高校を受験することにしました。

高校時代

もともと好奇心も強く、勉強は嫌いではなかったので(むしろ、好きな方だったので)高校受験では、無事合格することができ、「総合科学科」のある兵庫県の山奥にある高校で、寮生活をすることになりました。

高校時代は、大自然(山)に囲まれた寮で、「航空宇宙工学科」がある大学に入ることを目標に、ひたすら勉強し続けるという修行僧のような生活をしていました。

部屋には当然テレビも無く、寮の周りには、山しか無かったので、本当に世間から隔離されて3年間を過ごしました。

山奥の寮で勉強漬けの3年間を過ごしましたが、今思えば、「勉強の仕方が本当にマズかった」ので、端的に言えば、「勉強時間だけは多かったが、全然成果を残せるやり方では無かった」ので、第一志望である「航空宇宙工学科」がある大学には入れませんでした。

本当にありがたいことに、両親は一年間浪人することを許してくれたので、地元(兵庫県伊丹市)に戻り、大阪の予備校に通い、再度、第一志望である「航空宇宙工学科」がある大学に入ることを目指しました。

浪人時代

大阪の予備校に通い、まず衝撃を受けたのは、「予備校の授業の面白さ」です。

高校時代は、(自分で望んで行ったのですが)山奥の寮に隔離されており、高校の授業と独学で勉強していたので、予備校の授業の「分かり易さ」「分かるからこその面白さ」には、本当に大きな衝撃を受けました。

「こんなに分かり易い授業があるんだ」「こんなに面白いと思える授業があるんだ」「分からないことが分かることってこんなに嬉しいものなんだ」

と痛感し、私は、予備校の先生にすっかり魅了され、学ぶことがより一層大好きになりました。

予備校の1年間は、本当に毎日が面白く、あっという間に過ぎた1年間でした。

しかし、授業は面白く、毎日学ぶことが楽しくて仕方なかったのですが、数学に没頭してしまい、他の科目を全然勉強する気になれず、もともと第一志望であった「航空宇宙工学科」がある大学には入れませんでした。

「難しい数学の問題を、予備校の先生がいとも簡単に解く」ということが面白すぎて、どんどん難しい数学の問題に(難しい問題を簡単に解くその素晴らしい解説に)ハマってしまったのが、受験に失敗した最大の原因です。

(他の科目の勉強もですが、センター試験の勉強も全然していなかったので、、、)

大学時代

高校時代に勉強時間だけは長ったこと、浪人時代に数学を中心に毎日楽しく学んでいたこともあり、同志社大学工学部機械システム工学科に合格することはできました。

しかし、第一志望であった「航空宇宙工学科」がある大学に入れなかったことは、私にとって大きな挫折であり、かなり落胆もしました。

更に、大学に通い、衝撃を受けたのは、「大学の授業のつまらなさ(難しさ)」です。

浪人時代の予備校では、

「どれだけ難解な数学の問題でも、びっくりするぐらい分かり易く教えてくれる」

ので、毎日授業を聞くのが、難解な問題でも、まずは自分で考えてみて、先生の解説を聞くのが、楽しみで仕方ありませんでしたが、

大学の授業では、

「非常に難しい工学の問題を、授業を真剣に聞いても全然分からないぐらい難しく教えてくる」

ので、毎回授業を聞いて、「えっ、何でそうなるん?」という疑問に対して、自分で教科書を読んだり、別の参考書を買って読んで、考えて、「なるほど、そういうことか!」と必死で疑問を解決していくのが、本当に大変でした、、、。

予備校の先生は、「いかに、分かり易く教えることができるか?」ということを常に考えて授業をしてくれますが、大学の教授は、そうではないので、授業の面白さ、難しさに大きなギャップがありました。

「第一志望の大学に入れなかった」という挫折と「大学の授業がつまらない(難しい)」という予備校時代との大きなギャップから、

  • 自分が本当にしたいことは何なのか?
  • 将来、何を目指すべきなのか?

ということが分からなくなり、大学1回生、2回生の頃は、卒業に必要な単位はきっちり取得してはいたものの、将来が見えなくなり、少し、自暴自棄にもなり、今思えば、大学生活という貴重な時間の多くを、ムダにしてしまっていたと感じます。

そんな中、大学3回生の時に、私の考え方を、大きく変える出来事が起こりました。

それは、JR福知山線脱線事故です。

私は、大学の2限目の授業を受けるために、本来は、JR福知山線脱線事故の電車に乗るハズでした。

幸運にも、前日、レポート課題を仕上げるために徹夜しており、その電車に乗ることはありませんでしたが、いつも通り大学に行っていれば、命を落としていた可能性が高いです。

最も被害が甚大であった2両目と3両目は、同志社前駅の改札に一番近い位置にあるため、私も、普段通り大学に通っていたら、事故を起こした電車の、2両目に乗っていたからです。

幸い私の知人で命を落とした人はいませんでしたが、同志社大学の学生も犠牲になっており、

  • 生きていることは、当たり前のことではない。本当にいつ死ぬか分からない
  • 普段通り通学していたら死んでいた、、、。今、生きているのは、本当に幸運なこと
  • 第一志望の大学に落ちたからと言って、将来目指すべきものが見えないからといって、自暴自棄になっている場合ではない!!

と強く想い、それからは

  • 既に死んでいるものとして考えること。本当に幸運にも少しだけ時間が残されていると考えること
  • 少しでも周りの人の役に立つこと、笑顔に、幸せにし続けること
  • そのために、自己研鑽を怠らないこと

という考え方をするようになりました。

(JR福知山線脱線事故で亡くなられた方々のご冥福、怪我をされた方々の回復を心よりお祈りしています。)

社会人時代

塾講師時代

「学ぶことが大好きであること」「少しでも人の役に立ちたい、笑顔に、幸せにし続けたい」という想いから、関西を拠点に進学塾を運営している従業員数400名前後の企業に、塾講師として就職しました。

もちろん、真の学ぶ楽しさを教えてくれた予備校の先生に対する憧れの気持ちもありました。

「いつかは、予備校で数学を教えれるようになれればなぁ」という漠然とした夢はありましたが、数学科を卒業した訳でもありませんので、私は、主に小中学生に算数や数学を教える部門に配属されました。

実際に、算数や数学を生徒に教えていると、私は、塾とそこに通う生徒に対して、大きな思い違いをしていることに気がづきました。

私が予備校に通っていた理由と、勉強をしていた理由は、

  • 予備校に通っていたのは、お金を払ってでも勉強したいから(志望校に合格したいから)
  • 勉強をしていたのは、分からないことが分かること、知らないことを知れることが面白いから

でした。

お金を払ってでも勉強したいから塾に通い、分かるようになることが面白いから(成長できるのが嬉しいから)勉強するものだと思っていました。

しかし、塾に通っている小中学生の多くは、

  • 塾に通っているのは、親に、半ば強引に行かされているから(もしくは、友達が行っているから)
  • 勉強をしているのは、親や塾の先生に「やれ」と言われているから

という理由で塾に通い、勉強をしていました。

当時の私は、

  • お金を払ってでも、勉強したい生徒には、いくらでも教えてあげたい
  • しかし、別に勉強が全てではないので、小中学生のうちは、勉強ではなくても、自分の好きなこと、やりたいこと、将来の夢の実現のためになることに没頭したら良い(それを全力で応援したい)

という考え方を持っていましたので、

・勉強したくない生徒に、無理やりにでも勉強させたい(勉強させなければならない)

という考えは一切無く、

・勉強したくないのなら、しなければ良い(別にお金を払ってまで、塾に通わなければ良い)。そして、その時間を自分の好きなことに没頭する為に有意義に使ったら良い

と思っていました。

今では、無理やりにでも、嫌々でも勉強した方が良い理由をいくつも挙げれますが、当時は、生徒から何回聞いたか分からない

・何で勉強せなあかんの?この勉強が社会人になってどんな役に立つの?(本当に役に立つの?)

という質問に対して、塾講師以外の社会人経験が無い私は、答えを持ち合わせていませんでした。

むしろ、子供達と同様に、「小中学校の勉強は、社会人になったら不要なのでは?」という懐疑的な考え方を私もしていたので、子供達に対して、真剣に「嫌でも勉強しなさい!」と言うことが出来ませんでした。

  • 小中学生が、無理やりにでも勉強しなければならない理由はあるのか?
  • 小中学校の勉強が、社会人になった際に、どんな役に立つのか?(本当に役に立つのか?)
  • そもそも社会人に求められるスキルはどんなものなのか?そのスキルはどうやって身につくのか?それは、小中学校で習うことと、どんな関係があるのか?

ということに対する答えを、自分の中でしっかりと持ちたい、それが無ければ、塾で教える資格が無いと考え、塾講師ではない職業に就くことに決めました。

プログラマー時代

塾講師を辞めた後、私は、従業員数100名前後の企業に、プログラマーとして就職しました。

大学時代は、「コンピュータープログラミング」の講義が非常に好きであり、自分でプログラミング言語の教材を購入して独学でも勉強しており、卒業論文でも、流体力学のシミュレーションプログラムを自分で書いて発表していました。

「コンピュータープログラミング」を利用すると、自分の頭では分からないことが一瞬で分かる(一瞬で膨大な計算が可能なので)ということが非常に面白く、もっと勉強したいと思っていたので、プログラマーという職業を選びました。

また、小さい規模の会社を選んだのは、「すぐにでも現場で、プログラム開発の経験を積みたい」と思ったからです。

就職した会社では、取引先企業に常駐して、プログラム開発の仕事を請け負っていたのですが、私は、デジタルカメラのプログラム開発現場に常駐することになりました。

プログラムによってデジタルカメラを制御する(プログラムによって、意図通りに精密機械を制御する)ということが、私にとっては面白すぎて、

(何万行というプログラムによって、正しい制御ができるということが奥深くて)私は、デジタルカメラのプログラム開発の仕事に、プログラミングの勉強に、没頭しました。

勉強と仕事に没頭した甲斐もあり(ただ、面白くてハマっていただけですが、、、)半年後には、見習いの立場から、実際の製品にリリースするプログラム開発の仕事を任されるようになり、更に、私は仕事にハマっていきました。

プログラム開発の仕事も、プログラミング自体の勉強も楽しくて仕方なかったのですが、

・デジタルカメラ自体の需要の減少から、開発人員の縮小(常駐人数の削減)

が決まり、デジタルカメラのプログラム開発現場を離れることになりました。

また、多くの人員がその現場を離れることになり、すぐにその人員の全てを異なる現場に常駐させることが困難であったため、私自身も、別の就職先を探しました。(同じタイミングで、その現場を離れた先輩や同僚も同様でした)

システムエンジニア時代

プログラマーとしての経験を得た後、私は、従業員数400名前後の企業に、システムエンジニアとして就職しました。

プログラム開発の仕事、プログラミング自体の勉強も好きでしたが、

  • そもそもどんな機能をプログラムで実現するか?という機能要件の整理
  • 更には、そもそもどんなことを実現したいのか?というビジネス要件の整理
  • そして、プロジェクトが求められる品質・納期・コストを守れるか?という進捗・課題の管理

という一段階上の仕事もできるようにならなければいけないという想いから、プログラマーとしてではなく、システムエンジニアとしての仕事を選びました。

システムエンジニアとして、私は、防災無線システムの開発・導入の要件の整理、システム全体の設計、案件全体の取り纏めを行う仕事に携わりました。

要件の整理、システム全体の設計、案件全体の取り纏めの仕事は、今まで行ってきたプログラム開発とは、内容が異なり、初めは、分からないこと、うまくいかないことも多く、大変ではありましたが、

  • お客様のやりたいこと、実現したいことを直接聞いて、整理できること
  • システム全体の設計を行うことができること
  • お客様や仕入先様などの社外の関係者との調整、プログラム開発を行う社内の関係者との調整を含め、案件全体の取り纏めを行えること

大きなやりがいを感じ、また、仕事と勉強に没頭していきました。(良くも悪くも、何かに没頭し易い性格です、、、)

その頃、資格の勉強にもハマっており、(ようやく勉強の仕方もコツを掴めるようになり)

  • 応用情報技術者
  • ネットワークスペシャリスト
  • 情報セキュリティスペシャリスト

などの資格も取得していきました。

システム開発のプロジェクトマネージャー時代

システムエンジニアとして、要件の整理、システム全体の設計、案件全体の取り纏めを一通り行うことができるようになった後、私は、システム開発のプロジェクトマネージャーを任されることになりました。

それまでは、要件の整理、システム全体の設計、案件全体の取り纏めを行う際も、先輩からのサポートを受けながら行っていましたが、

今度は、プロジェクトマネージャーとして、責任と意思決定権が与えられ、自分でプロジェクト全体をリードしていく必要がありました。

私がプロジェクトマネージャーを任されたのは、「携帯ショップ向けの来店者様の呼び出しシステム」でした。

そもそも携帯ショップでは、どのような業務が、どのような流れで行われており、どのような課題が存在しているのか?全く知らなかったので、店舗に行き、実際に業務を拝見させて頂きながら、業務の内容、課題の内容を丁寧にヒアリングし、一つ一つの要件の整理を行っていきました。

要件の整理を行い、その要件を満たすために必要な機能を整理し、システム全体の設計を行い、必要な作業を洗い出し、スケジュール計画を立て、コストを算出し、お客様と機能内容、品質、納期、コストを合意したうえで、

合意したゴールを達成できるように、システム開発のプロジェクト全体をリードしていくことは、毎日22時頃まで残業し(時には、日付が変わることもあり)、四六時中プロジェクトのことを考え、予想外の出来事、困難な課題にも、メンバー全員で知恵を振り絞って対応し、

「もう、倒れてしまいたい、、、」と思うぐらい、大変なことではありましたが、システム開発に着手してから

  • 半年後に、初めて開発したシステムの全ての機能が正常に動作したとき
  • 7ヶ月後に、無事、1店舗にシステムを導入できたとき
  • 一年後に、関西にある約300の店舗にシステムを導入できたとき

チームの一体感と達成感、そして、やり遂げたことに対する成長の実感は、格別でした。

現在では、携帯ショップに限らず、全国で約1,000施設に導入されているシステムなので、もしかすると、使ったことがある方もいるかもしれません。

プロジェクトマネージャーの仕事は、日々課題解決、日々意思決定、日々調整ごとの連続で、本当に大変だとは思いますが、その分、やりがいも大きいです。

そして、やりたい人はあまりいないかもしれませんが、需要もあります(笑)

システム開発のプロジェクトマネージャーの仕事をやり遂げた後、結婚することを考えていたので、

  • まずは、残業時間が少ない企業(結婚することもあり、大手で安定した企業)に転職すること
  • そして、高生産性を追求し、短時間できっちり成果を残したうえで、家庭の時間も充実させること

を次の目標にしました。

中小企業向けWebサイト構築のプロジェクトマネージャー時代

システム開発のプロジェクトマネージャーとしての経験を得た後、私は、従業員数3,000名以上の事務機器メーカーの販売会社に転職しました。

どの事務機器メーカーと、その販売会社でも同じですが、近年、事務機器業界では、製品がコモディティ化(同じような製品が溢れかえっていること)しており、

製品だけで勝負するのではなく、製品+ITサービスを提供することで、顧客満足度を高める(顧客の囲い込みを行う)という傾向にあります。

既存の顧客に、新しいITサービスを提供すること、更には、新規の顧客にも、新しいITサービスを提供することが、求められており、私は、「中小企業のお客様にITサービスを提供する事業部」で「サービス提供の役割を担う部門」に配属されました。

企業によって、各部門の役割分担の仕方は様々ですが、お客様にITサービスを提供する際、

  • 営業部門:お客様と最初に接点を持ち、課題をヒアリングし、どのようなサービスであれば、課題解決が可能かを見極める役割を担う
  • 技術営業(プリセールス)部門:営業部門からお客様を引き継ぎ、より深いITサービスの専門知識を持ち、サービス提供(デリバリー)部門と協力して、お客様への詳細な提案を行い、仕事を受注するまでの役割を担う
  • サービス提供(デリバリー)部門:仕事を受注した後、技術営業(プリセールス)部門からお客様を引き継ぎ、実際にITサービスを提供する役割を担う

というような役割分担をすることが多いです。

私は、もともとシステムエンジニアであり、プロジェクトマネージャーの経験もありましたので、「サービス提供部門(デリバリー部門)」に配属されました。

事務機器メーカーの販売会社に就職した後、私は、「大企業のお客様にWebサイト構築を提供する事業部」のあるコンサルタントのプレゼンテーションに感銘を受けました。

私は、「中小企業のお客様にITサービスを提供する事業部」であり、そのコンサルタントは、「大企業のお客様にWebサイト構築を提供する事業部」で、事業部自体が異なるのですが、

「心の底から、この人のように成りたい」

と思うことができ、それから私は、Webサイト構築に関する猛勉強を開始しました。

心から尊敬できるコンサルタントの思考を丸パクリできるように、その人が書いた提案書、実際にサービス提供された資料、感銘を受けたプレゼンテーションとそれ以外の動画を、ありとあらゆるコネを使って集め、

動画・音声・文書を「超高速・並行・継続」で、大量にインプットしました。

そのコンサルタントが書いた提案書やプレゼンテーション動画は、もう何度見たかは、分かりません。

そして、「中小企業のお客様にITサービスを提供する事業部」の「サービス提供部門」において、私は、見様見真似で、中小企業のお客様にWebサイト構築を提供するようになりました。

もともと、プロジェクトマネージャーの経験はありましたので、お客様の要望や課題をヒアリングし、要件を整理して、Webサイト制作を行うことができる協力会社に要件を伝え、

お客様と機能・品質・納期・コストを合意したうえで、私がプロジェクトマネージャーとして、全体の取り纏めを行い、協力会社と協力して、お客様の要望を満たすWebサイトを構築していました。

心から尊敬できるコンサルタントが書いた提案書やプレゼンテーション動画のインプットと、Webサイト構築に関する技術や事例の勉強、そして、中小企業のお客様に対するWebサイト構築の提供を継続しながら、

「心から尊敬できるコンサルタントと一緒に仕事ができる機会」

を待ち続けていたところ、社内公募により、そのコンサルタントが所属する、「大企業のお客様にWebサイト構築を提供する事業部」で、営業担当が募集されました。

もちろん、すぐに立候補し、どれだけ懸命に勉強と実践を続けてきたか?どれだけWebサイト構築の知識と実績があるか?を猛烈にアピールすることで、

事業部を異動し、役割もサービス提供(デリバリー)部門から、営業部門に変更することになりましたが、心から尊敬できるコンサルタントと一緒に仕事ができる機会を得ることができました。

それは、事務機器メーカーの販売会社に就職し、Webサイト構築の勉強と実践を続けながら待ち続けて、約3年後のことでした。

大企業向けWebサイト構築の営業時代

晴れて「心から尊敬できるコンサルタントと一緒に仕事ができる機会」を得ることが出来た私は、今まで以上に、そのコンサルタントの思考を丸パクリできるように、

少しでも多くの時間を過ごせるように、少しでも多くの仕事を一緒にできるように、必死で営業活動を行いました。

その結果、

  • 日本で知らない人はいないスポーツ用品メーカーのWebサイト構築関連の仕事
  • 全世界に販売網を持つグローバルな塗料メーカーのWebサイト構築関連の仕事
  • 1兆円を超える売上規模をもつ精密機器メーカーのWebサイト構築関連の仕事
  • 日本の大学を網羅している理化学機器販売商社のWebサイト構築関連の仕事

などを、受注することができ、一緒に仕事をすることができました。

営業とコンサルタントと、役割は違っても、実際に一緒に仕事をすることで学べることは非常に多く、私にとっては、濃密で至福の時間でした。

今まで、提案書やプレゼンテーション動画は、何度も見てきましたが、実際にお客様とどのようなことを喋るのか?どのような判断をして、どのような提案を行うのか?そして、どのようにお客様を魅了していくのか?

ということは、生の商談でしか見れないことでしたので、本当に貴重な気づきと学びの時間でした。

しかし、そんな私にとって最高の時間は、長くは続きませんでした、、、。

心から尊敬できるコンサルタントが、退職することになったからです(泣)

そのコンサルタントが退職した後、事業部の方針は大きく変わり、私にとって、魅力的な要素は、残っていませんでした。

「この先どうしようか?誰を、何を目標にすべきか?」

という悶々と日々を過ごしていたところ、「大企業のお客様にITサービス(Webサイト構築を除く)を提供する事業部」の「技術営業(プリセールス)部門」の部長から

「そんなに悶々としているなら、新しく技術営業(プリセールス)の仕事をせーへんか?」

という嬉しいお誘いを受けました。

このまま悶々としていては、お客様にも、社内の関係者にも悪影響を及ぼしてしまうので、私は、心機一転し、新しく技術営業(プリセールス)部門の仕事に挑戦することにしました。

大企業向けITサービス提供の技術営業時代

新しく「大企業のお客様にITサービス(Webサイト構築を除く)を提供する事業部」の「技術営業(プリセールス)部門」に配属された後、すぐに、私にとって予想外のことが起きました。

それは、「技術営業(プリセールス)部門」に誘ってくれた部長が、退職したことです(泣)。

「えぇ!?もう退職するんですか!?」「今から、一緒に仕事できることを楽しみにしてたのに!!」

とその部長に伝えると、

「きみが、技術営業(プリセールス)部門に来てくれたから、安心して退職できるわ!」

とか言われました、、、。

「いやいやいや、ちょっと待って下さいよ」「せっかく、部署を異動してきたのに、、、」

と何度心の中でボヤいたか分かりません。

しかし、部署を異動した以上、やるしかありません。

「大企業のお客様にITサービス(Webサイト構築を除く)を提供する事業部」においても、既存のお客様、新規のお客様に、従来の製品ではなく、新しいITサービスを提供することが求められていましたので、

  • 社内に成功事例が無いなら、社外の成功事例を多く学ぶこと
  • 新規のお客様に、新しいサービスを提供することに関して、起業家の思考をどんどんパクること
  • そして、それを社内で試行錯誤しながら実践し、成果を残すこと

を決心しました。

もちろん、初めは失敗ばかりで、試行錯誤の連続でしたが、改善と行動を続けることで、

  • 日本で知らない人はいない軽自動車メーカーへのITサービスの提供
  • 連結で2万人以上いるグローバルな半導体メーカーへのITサービスの提供
  • 1.5兆円を超える売上規模をもつ産業機器メーカーへのITサービスの提供
  • 創業150年の歴史を持つ大手ゼネコンへのITサービスの提供

などを、提案し受注することができました。

そして、現在では、高生産性を追求し、短時間できっちり成果を残したうえで、家庭の時間も充実させることができるようになり、下記のような日々を過ごしています。

平日のタイムスケジュール(例)
  • 2:30~6:00:読書をしたり、ブログを更新したり、自己研鑽の時間を過ごす
  • 6:00~8:00:朝食の準備、仕事の支度をした後、ゆっくり家族で朝食を食べる
  • 8:00~9:00:子供を保育園へ預け、職場へ通勤する
  • 9:00~17:30:職場で仕事。高生産性を追求し、短時間できっちり成果を残す
  • 17:30~18:30:職場から退社し、保育園へ子供のお迎えにいく
  • 18:30~20:30:夕食、お風呂など、少し慌ただしくも家族の時間を過ごす

もちろん、休日出勤も、ほとんどありません。(1年に1回あるか無いかのレベルです)

短時間できっちり成果を残し、家庭の時間を充実させ、自分の人生を生きていることを実感できるようになったのは、

  • 成功者の思考を丸パクリしたこと
  • 起業家の思考をどんどんパクったこと
  • それを、試行錯誤しながら実践し、改善と行動を続けたこと

がすべてです。

まとめ

  • 今まで中小企業から大企業まで、多くの職場を経験してきたこと。
  • 今まで塾講師、プログラマー、システムエンジニア、プロジェクトマネージャー、営業、技術営業など、多くの職種を経験してきたこと
  • どの職場、職種においてもゼロから挑戦し、多くの挫折と失敗を経験しながら、多くの気づきと学びを得てきたこと

決して人に誇れるような人生を歩んできた訳ではありませんが、多くの挫折や失敗から、多くの気づきや学びを得てきたのは事実ですので、

それらをブログで発信することで、少しでも、あなたの人生がより良いものになることを、心から願っています!